最近随分と日が長くなりましたね。仕事終わりは18:00なんですが
ほんの数週間前は真っ暗でしたが今ではかなりの明るさです。
気持ち、暖かい日が続いてますしね~もう春が近いのでしょうね。
でも意識の中では2月が一番寒いという意識があります。
まだまだ気が抜けません。風邪などひかないようにね!


金曜は会議ですね。PTは諦めてます!
c3最後の戦争で、防衛戦・攻布告の多さなどから会議は長引きました。
皆さんお疲れ様でした。
sekiがLv58の95%だった為、会議終わりで上げたかったのですが
PTは無く、いつものソロplayです。
今日は忘却では無く超マフム(オエルマフム)で狩してみました。
まぁ、緑ネームですからね危なくなく狩りできます。
lv59.jpg

無事Lv59をHitすることが出来ました。
これで傲慢のパピクエ受けれます!かなりウレシス。
傲慢に行って『パピコタ!』なんて聞いて『ペッ!』と思わなくて済みます(ォw
ネクカタより傲慢行きたいので誘ってね!
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【MusicLife】※注:長いです!
俺は小学生くらいのときから洋楽しか聴きませんでした。
今でこそ邦楽も聴きますが、当時は洋楽onlyでした。
おませなガキですが洋楽の音の厚みって言うんですかね、
邦楽には無い(当時)何層にも重なる音のコラボがすっげー魅力的でした。
そのキッカケとなったのが今でも大好きな
【Dead or Alive】です!!
かなりのメジャーですのでご存知の方も多いことでしょう。
あの、ストック・エイトキン・ウォーターマンのプロデュースで全世界で大ヒットしました。
中でもヴォーカル Pete Burns(ピートバーンズ)が大好きでしたね。
SEXシンボルという賞があり、
男性の部(より男らしい人)
女性の部(より女性らしい人)
と、2部門ありました。
現在はわかりませんが、当時は男性の部・女性の部両方で受賞したのは
ピートしかいませんでした。
あの、マドンナ(女性の部)・マイケルジャクソン(男性の部)なども
もちろん受賞していますが両部門では受賞経験がありません。
有名な曲では
・YOU SPIN ME ROUND (LIKE A RECORD)
・SOMETHING IN MY HOUSE
・IN TOO DEEP
・LOVER COME BACK TO ME
・MY HEART GOES BANG
・I'LL SAVE YOU ALL MY KISSES
   ・
   ・
   ・
数えていけばきりが無いです!
中でも一番好きだったのは BRAND NEW LOVER と言う曲です。
世間的には「ディスコ」で大ヒットの SOMETHING IN MY HOUSE や YOU SPIN ME ROUND (LIKE A RECORD) などが
人気でしょうね。
あっ・・書いてると聴きたくなってきた!
20060131163731.jpg

この画像の眼帯をしている頃はアルバム YOUTHQUAKE の頃ですね。
ピートはライバル視していたアーティストがいました。
カルチャークラブのボーイジョージです。
彼に追いつき、追い越すまでは眼帯をしていると決意して眼帯を愛用し、ピートの代名詞となりました。
peteburns.jpg

そして、世界的に大ヒットしてピートは眼帯を取りました。
カッコヨス><v
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下記、非公式ファンサイトより抜粋
リヴァプール郊外出身のピート・バーンズは、ロンドン・パンクムーヴメント発生当時の1970年代後半に音楽活動を開始。ジュリアン・コープ(The Teardrop Explodes)、ピート・ワイリー(WAH!)とともに結成した”ミステリー・ガールズ”を経て、現バンドの前身となる”ナイトメアーズ・イン・ワックスを1979年に結成した。
1980年に大手レコード会社と契約するにあたって”デッドオアアライヴ”と改名、83年に”ミスティ・サークル”でメジャーデビューを果たした。メンバーはピート・バーンズ、スティーヴ・コイ、マイク・パーシィ、ティム・レヴァーの4人であった。84年にファースト・アルバム「美醜の館」(原題Sophisticated Boom Boom)をリリース。KC&ザ・サンシャイン・バンドの”ザッツ・ザ・ウェイ”のカヴァー曲などのヒットを生んだ。同年、ピート・バーンズは新進のプロデューサー・チーム”ストック、エイトキン&ウォーターマン”(以下S.A&W)を発掘、彼らと組んで制作した”ユー・スピン・ミー・ラウンド”は爆発的大ヒットとなり、まさに国境も時代も超越する名曲となった。ここからデッドオアアライヴとS.A&Wの伝説は始まった。
(※S.A&Wはこの後カイリー・ミノーグ、バナナラマ、リック・アストリーといったポップアイドルを作り上げていった。)
彼らにプロデュースを依頼して制作したアルバムは「ユースクエイク」、「ブランド・ニュー・ラヴァー(原題Mad,Bad And Dangerous To Know)」の2作である。”サムシング・イン・マイ・ハウス””ブランド・ニュー・ラヴァー””ラヴァー・カムバック・トゥ・ミー”等の数々のヒットを生み、本国イギリスをはじめアメリカ、日本のディスコ・シーンを虜にしていった。
1989年、初のセルフ・プロデュースアルバム「ヌード」をリリース。本作が日本で爆発的大人気となり、その中の”アンド・カウント2テン”は日本を熱狂の渦へと巻き込んだ超大ヒット曲である。同年、メンバーはピート・バーンズとスティーヴ・コイの2人になる。翌1990年、アルバム「ファン・ザ・フレイム・パート1」を日本でのみリリース。
1994年、イタリアのテクノ・グループGLAMとのコラボレーション曲”セックス・ドライヴ”を発表。この時期、バンド名を一時”インターナショナル・クライシス”と改名していた。1995年、アルバム「クレオパトラ」(原題Nukleopatra)をリリース。ブロンディの”Picture This”、デヴィッド・ボウィの”REBEL REBEL”をカヴァーしている。
2000年、日本のエイベックスからアルバム「フラジャイル」をリリース。新曲”ヒット・アンド・ラン・ラヴァー”をはじめ、”アンド・カウント2テン””ラヴァー・カムバック・トゥ・ミー”といった名曲を新しくアレンジした作品も収められている。
そして2003年、初のベストアルバム”エヴォリューション”をリリース。このアルバムにより、続々と新しいファンを獲得。2004年にはペットショップボーイズとのコラボレーション曲“JACK AND JILL PARTY”も成功させた(インターネット限定リリース)。
そして2006年、1年以上の療養生活からピート・バーンズは復帰、今後の活動に意欲的な姿勢を見せている。

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